昭和44年01月07日 朝の御理解
御理解 第70節
「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」
「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ」今日は、この御理解の中から、何故道理に合う信心をせねばならぬかと言う事を、焦点に置いて頂きたいと思います。例えば一心に頼むとか申しますけれども、やはり頼むとか言う事でも道理に合わねばおかげになってこないと思うのです。道理に合わない頼み方ではいけない。言うなら棚からぼた餅が落ちてくる様な願いは道理に合わないと言う事になります。例えば結婚して何年になりますが、子供が出来ない。
子供が欲しい。そこで只子供が出来ますように出来ますようにだけではいけない。そこには何か、どちらにか故障があるのかもしれない。ですからまずそこのところを願うていかねばならない。だから只金銭のお繰り合わせをお願いするだけではいけない。腕こまねいているだけではいけない。そこにはお金が生まれてくる働きの場というのを、まず頂かにゃいかん。そうして金銭のお繰り合わせを願わにゃいかん。
私今日御神前で頂きますのが、お百姓さんが使われる、様々な小道具ですね、例えば三木鍬とか、普通の鍬とか唐鍬とか鎌とか頂くのです。例えばお百姓さんの道具だからというて、鎌で地を耕す事は出来ません。唐鍬で草を刈ることは出来ません。ところが私共は、よくよく考えてみないとですね、唐鍬で草を刈らして下さい、と言う様な願いをしている時がある。そこは唐鍬でなからないけない。そこは鎌でなければいけないというそこんところを、まず確かめて仕事をしなければいけない。
信心して神様に一心に頼むと言う事でも、ひとつの道理というものをまず分からしてもらい、そして後に一心に頼むのでなからにゃいけん。そこで御結界と言うところは例えていうならば、役場なんかにいろんな書類を提出致しますと、判が一つ欠けとるからというて返される。書き方が間違うとりゃ、ここを書き換えて来なさいといわれる。そして直してもこない、判も押さんで又提出する、「あら、ここに判を押してきなさいというたでしょうが」「ここは書き直して来なさいというたでしょうが」。
何回いうたちゃ同じ事。そして何回行ったちゃ不親切だし、たいがいお願いしよるばってんおかげ頂かん。たいがいにゃ参ったけれどもおかげ頂ききらじゃった。ここを訂正して来なさい、ここに判を押して来なさいと言われてもしないから却下されてしまう。真心という判を押して来い、ここは改めて来い、ここはこう改まって願えという風に教えられても、改まりもせずに、真心という判も押さずに、繰り返し繰り返し書類を提出しておる様な業を、私共は繰り返しておる様な事はないだろうか。
そしてそこんところは、どうかひとつよろしくお願いします、というたちゃそれは出来んですよ。そこにはひとつの法則というか決まりがある。銀行に金借りに行ってもそうです。いくら心やすい仲であっても、そこにちゃんとしたものがなからねば、金を借りるのも金を引き出すのも出来ないように、そうゆうところが私は、お道の信心は教祖がはっきり教えておられると思うのです。だから「信心しておかげを受けるのは、不思議とはいうまじきものぞ」とおっしゃる。
言うなら、五と五をたして十になるのは当り前だ。それを、いくら五と五をたし合っても八にしかならん、七にしかならん、自分自身が計算を間違えよる、十にならんごとなっとる。これはお道の言葉の中に「分かるところが分かればおかげになる」といいますが、それはどうゆう事かと云うと、「道理を見て道理に合う信心、分かるところが分かればおかげになる」というのである。話を聞いて助かる道というのは、話を聞かねば助かるという道じゃない。
話を聞くと道理が分かる、話を聞きよるというなら計算の方法を習う。だから話を聞いて助かるという道なんだ、話を聞くことによって、改まりもすれば磨きもする修行もする。だから道理に合わない信心ならば、それこそ棚からぼた餅みたいにおかげの頂ける信心があるかもしれん。けれどもそれは人間は万物の霊長であるから、いやしくも万物の霊長である人間がです。只悲しい時の神頼み的な、只自分が頼むと言う事だけで計算の方法も習わず、道理も分かろうとせず。
唯言うならば、判も押さず訂正もせずに役所へ持って行って、どうでもこれは受け付けてくれ、受け付けてくれといやです「はい受け付けましょう」という役場がもしあるならばです、その役場はおかしい。これは大間違いの役場だと言う事になるのです。そうでしょうが、そんな事でおかげの頂ける信心があるとするならば、頼んどきゃおかげになるというのであれば、それはなる程厳密にいうと金光様の御信心でも、改まりもせんでも磨きもせんでも、計算は知らんでもお取り次ぎを頂けばおかげを受けられる。
それはいつも頂く様に「願う氏子におかげを授け」と仰るから、願う氏子におかげを授けなさる時期もあるけれども、本当は「理解申して聞かせ」というて、いわば計算の方法も、例えば頼むばかりじゃいかんぞと、例えば詫びる事やら礼を言う事やらの道を、まず教えて下さる。そこに筋道を立てて詫びるところは詫び、礼をいうところは礼をいうて、又どうぞお願いしますと、様々なひとつのおかげの頂ける道というものを、筋道立ててお話を頂くのである。
だからそこんところで頂くおかげというのは、やはり取次者というか、金光大神のお取次ぎのお徳によっておかげの頂けるというものであるけれども、ここのところでは、そこを卒業して、いうなら金光様の信心を本当に頂かしてもろうて、そこからおかげを頂いていこうとするならば、どうしてもここには判を押さなければならない。ここは改らねばならないというところは、改まる事を覚え、判を押す事を分からしてもろうて、そうすると、当然の事としてそれを受け付けて頂ける。
それを例えば、インチキ的な、強引なと云うか改まりもせず、判も押さずに、何辺も何辺もこれを受け付けて下さいと云った様な事では、やはりこれは、道理に合わないという事。一心に頼むからには、道理に合う在り方にならして頂いて、一心に頼むでなからにゃならないと言う事が分かります。まず私共は万物の霊長である事を自覚せねばならん。霊長としてのプライドを持たねばならん。おかげさえ頂けば、それこそ万物の霊長ではない。いうなら道理に合わない、いうなら」いやしい。
只拝んで貰えばおかげになるとか、呪うて貰えばおかげになるとか、と言った様な類いの信心がいかに万物の霊長で。としての信心にふさわしくないかと言う事をまずしらにゃいけない。万物の霊長としてのプライドをもって、そのプライドを傷つけない生き方、いわば紳士淑女の信心である。おかしくない信心、そしてそこには当然の事として神様がおかげを下さることのできる、いわば道にこちらが出らして頂き道をこちらが体得させて頂いて、いうなら計算を覚えてきちっと正確な答えを出していけれる。
いわば一分一厘の間違いのない神様の働きをです、身に家に受けていけれるおかげを頂きたいものである。人間は万物の霊長であるから、道理に合う信心をせねばならん」、さまざまな宗旨宗派の中でも、どうもおかしいいなあ道理に合わないような事が掟とか教えの中にある。どうもそれはおかしいと言う様な事がある、だから、そういう道理に合わない信心はいけないというのである。だからまず道理にある信心を分からねばならんと同時に道理に合う願い方。
今日はその一心に頼むと言う事道理に合う頼み方をしなければ本当のおかげは受けられない。ただ棚からぼたもちが落ちて来るような願い方、それは願う氏子におかげをさずけと仰るから頂けるけれども、次の理解申して聞かせという所を、よく分からせてもろうて、そこの所を役場の書類提出でお話しましたように、いくらお願いしてもお願いしても却下されるような状態の時にはです、修正もせずに判も押さずに提出しているような事はなかろうかと、私はもう一辺改めて出しておる書類を検討してみなければならないと思うのです。
どうぞ。